こんにちは。
今日、この日。1年、また1年とめぐってきて。必ず思い出すこの日。何かすごく被害にあったわけではなかったけれど、自分の日常とは全く切り離すことができなかったこの日。
記憶を負っていくという作業。何かしら風化できない事柄をみんなそれぞれ抱えて、生きていくものなんじゃないかと。大きなことから小さなことまで。家族だけのことかもしれないし、もっと漠然と、国や世界、時代を飛び越えていくことかもしれない。生きている中で自分で飲み込んで消化して、その上で立ち上がって生きていかなくてはならないんじゃないかと。
いわゆる戦争を、経験してこなかった世代です。今また物騒な話が出たりもしていますが、昔のような戦いあうことにならなければと、願うばかりです。その時代も然り、もっと前の時代も然り。そして、今もまた。何度でも同じことではないけれど、同じような困難を抱える時代がめぐってきて。それはもうサイクルなのか、運命であったのか。
天災も人災も何もかもがあり得る時代、世界にいて、自分という個はいったい何なのだろうか、と。ここにいる意味、存在しているということを問いたくなる時もあります。無に近い存在。結局人との繋がりを感じずにはいられなくなるわけで。私がここにこうしているのは、私の親の存在があってうんぬん。子供たちも私がいないとここには存在していないという。
大きなサイクルに飲み込まれそうになりながら、存在している小さなサイクル。すごく、宇宙的な気がしています。
今日、ある本を読みました。井上荒野さんの『赤へ』という短編集です。最後のストーリー₍雨₎が妙に引っかかっています。中学生の娘を持つ両親、そしてその娘本人、娘が昔から仲良くしていた友だち、そしてその両親。娘の友だちが自死をした、と。そしてそれはひょっとするとイジメの存在があったのではないか。自死した子の葬式前後のストーリーなのですが。
たった一言。それは昔は仲が良かった友だちに対する娘の放った、そしてイジメがあったのではと怪しむ母親が見つけてしまった。その一言が、疑惑から確信に変わる瞬間。言葉の持つ瞬発力、パワーに圧倒されます。それは表面張力のようで、その時を待たれていたかのように。
確かな言葉。いつも必ず含みがあるようで、そこには何も無かったり。正確でありたいのなら感情を一切入れなくて済むのかも。言葉の一人歩きもどんどん進んでいるようですね。チャットなんちゃら。よく知らないクセに話そうとしていますが。要はAIとのおしゃべりですよね。かなり正確に受け答えをしてくれているようで。ニュアンスもだいぶ読み取ってくれるんだかくれないんだか。人間の放つ一言に敵いはしないと思いますが(結局人間性を背負っているので)そう遠くない未来を予感されているような。
3.11以降うちには3人の子どもが来てくれたわけですが、果たして楽しいと思える世にちゃんとなっているのか心配になります。
無に近い小さな個なんだけれど、楽しんで暮らしていきたいという欲?願望は果てしなく大きくそれぞれきっと持っていて。それを満たしてあげられる環境であったり、考え方であったり。マイナスのことは、きっとプラスにしていかなければ。そのための個としての存在かなと、思うことにします。集まってプラスに転じるための小ささかなと。
今日も見ていただきありがとうございます。
桜がもう咲いてしまわないかと思うほど暖かい日が続いていますね。花見、したいです。
明日もよい一日を。
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