一緒にいるということ

こんばんは。今日のテンションはどちらでもない感じ。やや低めといったところでしょうか。こんな時間ですからね、高めでも困りますよね。

花粉、そこそこきてますね。でも見てると子どもたちの方が反応がひどいかもしれない。あれ、良くなってるんじゃなくて私が鈍くなってるってこと?どっちが正解?

素顔、まださらすのに抵抗があるんでしょうか、それとも習慣すぎるのか、みんなひどい花粉症なのか。今日から任意が任意になった、記念すべき日となったわけですが、いや、何も変わらな過ぎてかえって天晴と思ってしまいました。我慢比べか何かやってるんですかね。我慢が美徳とされる時代は終わったのかとばかり。そもそも我慢の質も違いそうですが。話の論点も感染対策からどんどん外れていって、マスクのことだけを取り上げるというもう意味が分からない状態の今。ウイルスが目に見える人たちがいっぱい歩いているんだなと思って日々過ごしていますが。

さて、相変わらず子どもたちはかわいいです。一緒にいれること。日々の生活そのものでもそうですが、大きく一緒に暮らせるということ。別の所帯を持つまでが大雑把に子育ての終着点ではないかと思っていますが。その中で多分できることって、自分を伝えることだけのような気が最近してきました。自分の考え含め、存在そのものというかそれがもし、生活の知恵とかそういうものに少しでもなってくれるんだったら。そうやって上手く引き継いでいくというか、消えていくというか。

自分、あがきます。正しくないこと、腑に落ちないこと、納得できていないことがあれば大いにあがきます。そんな方法、丸のみにされる必要はないこと。小さい声を上げていく意味。もともと、多数派にはなれない人間です。それはもう知っていました。子どもたちはそれに対してどう反応してくれるのか、それぞれの解釈を作ってくれればそれが一番いいなと思ってしまうのです。

一緒にいる意味。意味なんか無いさーと言ってしまいたいところなのですが、あえて言うならば強くなるかなと。単純に孤独にはならない。お互いにどこかしら必要を感じていられる。好きとか嫌いとかそういう次元ではなくなるな、と。特に子どもに対しては。ですね。

年を取ってくると、ちゃんと自分の目って社会に向いていくようになるんだなと。不思議ですよね。兄弟同士でつい最近飲んだ時も、結局どこに向かっていくという話。最終的にどうしていたいとかね。昔じゃ絶対考えもしないことばかりだなと。

文句を言う大事ももちろん、立ち止まってゆっくり眺めたり。たまに自分自身生き急ぎたいのかなと、思ってしまう時もあります。まあ、旦那さんも焦るタイプの人なので、どちらかが交替でストッパーにならないとなのですが。

夫婦の一緒も改めて考えちゃいますよね。20年目。それなりの節目です。まだまだよろしくという気持ちももちろんあるけれど。お互いに少し自分を解放する部分があってもいいのかなとも思います。趣味とかそういうことでなくて。パートナーが良いなと思うわけです。

双子のように無意識的にどこかがつながっていて、なにかするのに遠慮もせず、当たり前と言う必要もないほど、当たり前の関係。真にうらやましいと思います。

今日も見ていただきありがとうございます。

色々ナイーブ?なんです。割と真剣に受け止めすぎてしまいがち。また双子やら、小学生やらほのぼの、、してるかどうかの問題なのですが汗書ければと思います。

明るい話題も必要。自分が落ち込みすぎないように。

明日もよい一日を。

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この記事を書いた人

日々のよしなし事を、ただ。

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