こんにちは。
今日は誰しもがもっている誕生日についてです。
はっきり言います。
なんか~表向きは、気にしていない風を装いつつ〜、、
実際、まだまだ嬉しかったりします!
本当に嬉しくなくなります?そう言わなきゃいけない感じ?いくつまで自分で嬉しく思えているか、ちょっとこれは今後考えていきたいと思います。
さて、そろそろ私は誕生日。今年で39になります。そこそこ良い年齢になってきていると自負しているわけですが、39にあやかって、自分的39(サンキュー)元年にしたいと密かに考えているわけです。
感謝の気持ちはいつだって、誰にだって、さり気なく、かつ、然るべきタイミングで伝えられるのが!本当はベストだと思います。よくいただきものをするのですが、それに対して今だにさり気なくなんてできず。明らかなお返しのようにするのもスマートでないし、相手の喜ぶことや、モノを考え始めると、かえって収拾がつかなくなる事態。もう、サンキューという気持ちはいっそ、しぼみ切って無いに等しく。無くなってしまう悪循環。
普段から、人を想ったり考えたりしながら、モノを用意しておく生活が私のような人にとっては必要なのかもしれません。お土産にしろ、プレゼントにしろ、挨拶のものにしろ。義務がそこに生じ始めると、正直めんどくさい。気持ちの面で、さり気なさなんかミジンも無くなるわけです。
正解、不正解とかではないけれど、そんなもらいっぱなしは良くないよ。と言っている自分もいる。もういい大人なんだから。って。
本当、どちらかというともらう人なんです。
世の中には、あげるタイプ、もらうタイプが存在していると思います。私は断然、後者。昔から割と、です。高校生のときは意外にも、逆にプレゼント魔でした。あげたい気持ちがなんだか強くって悩むこともなく誕生日がくる友達に、色々なプレゼントをしていました。
その頃の勢い的なのが正直、今欲しいです。
その分の回収?人生においての帳尻合わせなのか。プレゼント、真剣に考えだすと非常に悩ましい問題です。
サンキューの原点。
モノとかではなく、気持ち。言葉。これなら割と普段から示している方です。
旦那にも、細かく「ありがとう。」って、言っていると思います。逆に言われてもいます。家事やら子どもの世話やら、どっちがやっても、どっちもやらなきゃ案件は、日常にいっぱい転がっているからです。逆に生活の中の当たり前のことをしているんだから、特にそのような挨拶をする必要はない。かえって水くさいとする文化もあるみたいですね。
うーん、それもそれで納得できちゃう。
要は、「ありがとう。」は、一つのコミュニケーションであってその言葉をゴールとしない関係がなんだかんだ、良い。ってことですかね。
言葉はプロセス。成果じゃない。しかし、成果にもなり得る。by marieです。
お互いがギブ&テイク。しかもそれが、心地よいテンションでいられるように。
ありがとう。を思うと、いや、深い。
私、まだまだペラペラです。
39歳、プレゼントは早速旦那氏に予約済みです。
うん、歳をとるの悪くないね👍
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